アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』SFと萌えの絶妙なブレンド

涼宮ハルヒの消失』を観たので、むかーしレンタルDVDで観たんだけど見返してみた。といっても、観たやつは全エピソードあったわけではなかったらしく、エンドレスエイト他、2期まで含めたバージョンでは初めて観た。

 

いやはや、これ系のアニメのサービスぶりは凄いものがある。

孤立している美少女が、主人公とだけは会話し、しかも主人公にだけは楽しそうな表情を見せ、主人公は幸せそうにそれに振り回されている。

にも関わらず、主人公は無関心な体を取り続けることで、逆にこの贅沢な状況の贅沢さを数段アップさせている。驚くべきことに、主人公キョンは、ハルヒのこの特別待遇どころか、みくるが目の前で胸を揉まれていても冷静沈着でニヒルなダンディズムを一貫させている。

キョンは男子高生ではなく、男子高生がこれくらい落ち着いて振る舞えたら、と願うひとつの理想形である。

キョンはワガママなハルヒに振り回され特別扱いを受けつつ、従順なみくるの事を存分に愛でつつ、淡白な長門が唯一気にかける存在として、絶妙なハーレムを築いている。

小泉は外野として、キョンハルヒがいかに良い関係であるかをキョンに語る役を担っている。というのも、キョンハルヒのロマンスは、トキメキの段階をキープする為、進行がほとんどない。もし2人が恋愛を本格的に始めてしまったら、この微妙なハルヒの愛情表現が終わってしまう。だから、恋愛は進展しない。

恋愛は始まれないので、2人の間に確実に信頼関係が築かれていく事を分かりやすく証明する役を担っているのが小泉で、とぼけたキョンに、「あなたたち2人のお互いに対する信頼には驚かされます」なんて言いながら、周りから羨ましがられる、という欲求を満たしている。

こういうのを良しとするかどうかは別として、キャラクター造形と、こういう関係性の構築は本当に良くできているなぁと思う。すごい技巧というか、闇が深いというか。

というか僕も最近ようやく分かってきたのだが、ハーレムアニメとはだいたいこういうパターンになっているようだ。わりと淡白か、もしくは性に疎い主人公と、ヒロインはそれこそツンデレやらデレデレやら何人かいて、かつ外野が意外そうにしつつ主人公を羨ましがったり、または「あの2人はそうらしい」とありがたい誤解をしてくれたりする。

受け身な主人公、迫り来る女子たち、羨ましがる外野。この基本配置をよく見る。

その上で、このアニメはやっぱりなかなか良い感じの雰囲気に実際できていると思う。萌えキャラなので、ある程度の定形になっているのだとは思うけど、他のアニメに比べればうんざりするわざとらしさ、あざとさはそこまで感じなかった気がする。

いや、そういう要素はあったけど、最低限ちゃんとストーリーやキャラクター同士の関係の中で展開していたというか。どちらかといえば恋愛より友情の方が描かれていると僕は感じていたからかもしれない。

 

 

6話で分かることだが、ハルヒキョンに対する気持ちは、キョンも世界に退屈さを感じているだろう、という共感がきっかけとしてあったようだ。その上でキョンが「俺はあの世界に戻りたい」という意思表示をする展開は、なかなかアツいものがある。

その上で、ハルヒは次の日にキョンに褒められたポニーテールで学校にやってくることから、彼女もこの退屈な世界を少し前向きに捉え始めたのだということが分かる。

「私はこの世界が嫌いだが、貴方が好きなこの世界は守りたい」というロマンチックな展開になっている。そこに「お前のポニーテールは反則的なまでに似合っていたぞ」という間の抜けたセリフと、それにうっかり喜んでポニーテールにしているハルヒという軽妙な見せ方も良かった。

そして、そこで素直に「似合ってるぞ」と褒めるキョンはやっぱり高校生とは思えないが、ここでキョンがドギマギしていたら、多分この2人の関係はもっと「いわゆるハーレム」っぽい面倒な感じになっていると思う。

キョンの大人な感じは、やっぱり、このアニメの軽快さの為には重要な要素なんだろう。

 

 

その後、数話は1話か数話完結の学園物として進んでいき、エンドレスエイトに突入する。

 

ウワサには聞いていたが、ここまで同じことを繰り返すとは驚きだった。しかも8話。

いや、これ、僕はエピソード一覧で「8話もあるなぁ」と分かりながら観ていたし、逆にどこで終わるのか分かっていたから退屈さを感じつつも、このアニメの一部だと思って観ていられたけど、これ地上波でも同じように流れていたんだろうか。

だとすると、8週間に渡って同じ話を延々見せられ、かつ、いつ終わるのか分からない、もしかしたら、このまま最終回まで行く気では・・・、というような気持ちとともに視聴者は観ていたのだろうか。

もしそうだとしたら、これは凄いチャレンジ精神というか、賭け師としか言いようがない。もうこんなことをするアニメはないだろうし、唯一無二になるのではないだろうかと思う。

毎週違うお話を聞かせてくれるから毎週観ているのに、毎週同じ内容だったら毎週見る意味がないじゃないか。「エンドレスエイト」は週一で放映されるというアニメの型自体を軽く脱臼させている。もうちょと言えば、僕たちが毎日毎日生活していること自体にもある視点を投げかける。

 

無限ループの表現として、ここまで徹底している作品はアニメ以外も含めてなかなかないのではないかという気がする。少なくとも、実験的なものでなく、こういう普通の商業的な作品ではないのではないか。

だって、本当に同じ内容ばかりが描かれている。

ループ期間は2週間もあるのだから、各話でループ内の違うエピソードを語っていくことはできるはずだ。しかし、このアニメはそれをせず、本当に毎回同じことをしている。

同じ場所へ行き、同じようなセリフを交わし、同じようにループに気づき、同じように解決に失敗して、同じように忘れ、同じようにループする。

微妙にカットや描き方が変わったり、服装が違っていたりはするとはいえ、本当に、同じお話をひたすら語り続ける。8話といえば、1話20分と考えても160分。ちょい長めの映画と同じ時間、同じものを見せられ続ける。

 

逆に、同じ話でもアニメ的な語り方はいろいろある、いろいろなカットがあり得るし、いろいろな演出が可能性としてあり得るということの面白さもあった。

普通、あるストーリーを伝える為にある絵が描かれている、と考えるだろう。しかしここでは、あるストーリーに対して描かれる絵は唯一ではなく8パターンある。

各話の絵の違いはストーリーを語る為というより、それ以外の各話と同じではない(再放送ではない)という証明の為の違いなんだという意味を持っていたと思う。「違う(ループ回数は進んでいる)」という事実の方が主目的であって、ストーリーを語るためにある絵が導かれているわけではない。

 

エンドレスエイト』は疑似長門体験だったのだと思う。

長門は595年(だったか?)、このループを繰り返し続けているわけで、同じ日々を繰り返し、同じ質問をされ、キョンたちは同じようにループに気づくが、同じように解決に失敗し、ということをバカみたいに繰り返しているわけだ。

視聴者の僕は、毎回なにか違うことが起こらないか、と期待して各話を観るわけだけど、結局毎回同じ展開を辿っていく。新しいヒントとかすらない。

各話、「何も起きないか。なにか違うことはないか」と期待しながら観るも、何も起きないまま8月の終わりが近づいてくる。最後の望みとして各話の最後、ハルヒが喫茶店から帰っていく場面で、キョンが何か変わったことをするのではないかと期待するが、結局なにも思いつかず夏休みが終わってしまう。

同じことをループしているだけなのに、最後に違うことを考えつくなんていうのは奇跡みたいなことである。普通に考えたら、同じ過程からは同じ結果が出て来るし、だからこそ1万回以上ループを繰り返しても問題は解決されない。

長門はすべての記憶を持っているのだから、この硬直を揺さぶる事ができるはずだが、そもそも長門にはこれを解決する動機がない。これで長門というキャラクターは超越的な存在であり、長門はやはり人類とは全く別物で、違う概念を持っていきているだろうという事がよく分かる。

 長門は時空を超越していると小泉が言う。つまり長門は、全く違う位相の世界を生きている。そういう「人間にとっての世界」よりも外側の世界を感じさせるキャラクターとして、長門は存在している。

SFとしてはベタかもしれないが、これを観ると、人間にとって「今」とはなんなのか。今日が初めてに感じるのは結局は前もって今日の記憶がないからなのか、僕たちの生活もループしてないとは言えないし、そうだとしても気づきようがない。というような事も考えざるを得ないし。

エンドレスエイト』、また8話通して観たいとは思わないが、この試み自体は凄いことだと分かるし、それは多分成功している。僕はいろいろ感じさせられたし考えさせられた。

 

 

これが終わると「みくるの冒険」である。

アニメ内でも言われるように、映画撮影は、ハルヒによる、「自分が世界の中心になる」という行為の疑似体験である。というか、実際そうであるのにそれを疑似体験しているというのが面白いところなのだが。

ここは基本、横暴に振る舞うハルヒキョンが怒るという展開の為のエピソードだと思う。

その上で、怒られたハルヒが閉鎖空間を作っていないというのが大事で、怒られたけど、ただ苛立っているのではなく、ハルヒはいくらか反省してしょんぼりしている。

ハルヒは、できることは何でもやっていいという思考から、できるけどやってはいけないこともある、ということを学んでいく。と同時に、思い通りにならないことを受け入れている。

自分の思い通りにさせないキョンに対して、怒りより反省があるということは、キョンを自分と対等な存在と認めているということである。

「自分ー自分を取り囲む退屈な世界」という構図から、「自分ー自分と対等な他者」という構図が、ハルヒの認識の中に生じていることが分かる。

キョンに怒られた後、部室でポニーテールを作っている細かい演出に感心。

 

その後、文化祭である。

正直言って、ライブシーンはさすがに引いた。なんだこれは、と思っていた。アニメーション自体は凄かったけど。なんというか、妙な気恥ずかしさを感じた。

がしかし、この一件で、ハルヒは他人のために何かをして感謝されるという経験をする。

 

映画の件に続いて、ハルヒは「自分が中心ではない」という経験をポジティブな感情で重ねる。いや、ボーカルだから中心なんだけど、自分本位ではないという意味で。

 

ここではたと気づいたのだけど、ハルヒツンデレだとか、振り回してくれる活発な女子という萌え属性の権化みたいなキャラクターだと僕は思っていたんだけど、これは単に萌え要素というより、幼稚性の表現なんじゃないかと思い始めた。(まあ、萌えの中に幼稚性というパラメータがあるのかもしれないが)

「自分は特別ではない」ということには気づいた後、ほとんどの人はそのことを受け入れ、手近なところで心地よい関係を作ったりして、日々の平凡な生活を満足いくものにしていくだろう。

が、ハルヒの場合、その自分の普通さを認められず、何か特別なことをしようと躍起になっている。社会関係を築く代わりに、「特別さ」を追い求める。

ハルヒが周りを振り回すのも、幼児性ゆえと考えた方がしっくりくる。

特別じゃない人間はここまで周りを好き勝手に振り回せないから、ハルヒは「自分が特別ではない」と気づいた後でも、実は特別な人物として振る舞い続けている。つまり頭では理解していても、その幼稚さゆえ行動としては依然、特別なまま振る舞っている。

そんな幼稚さにキョンが怒る。「言ってわからないやつは殴ってでも躾けないと」というのは、まさに子どもに親が言うようなセリフである。

ハルヒはただ怒って反発するのではなく、ここで凹む。

その後、軽音部の代役により、他人のための行動をし、感謝され、ここでハルヒは、横につながる社会(ハルヒがトップに居座る社会ではなく)の良さを初めて体験する。

 

そう考えていくと、ハルヒは幼稚。みくるも優柔不断で自分の意見をはっきり言えず、上手くいかない事があると泣きじゃくるという様子から幼稚。また、自分の世界に閉じこもり、社会性を築けず、気にかけてくれる相手(キョン)にだけ無言で意思表示するような長門も幼稚である。

可愛さとは幼稚さのことなのだろうか。

このアニメは、男2人は大人っぽくて、女は3人は幼稚である。落ち着いた大人なキョンが、それぞれ幼稚さを持った女の子たちと包容力を持って接していく、という形になっているように思う。

その中で少しずつ成長するのがハルヒであるし、それがキョンとの関係の発展と重ね合わされている。そしてストーリー的にもハルヒの成長は世界にとって重要な課題でもある。なにせ世界の存続は、ハルヒが「この退屈な世界も悪くない」と、普通の大人のように考えてくれるかどうかにかかっているのだから。

 

世界をどうにでもできるが、それに気づいていないハルヒ、という設定の面白さ。ハルヒが望んだから宇宙人や未来人や超能力者がいるのか、ハルヒを監視するためにそいつらが集まったのか、どちらが原因で結果なのか分からない状況。

ハルヒの能力は、SF的に世界に対する疑問の投げかけにもなり、困難やバトルにも生み、ハルヒの内面のヒントでもあり、恋愛にもなる。

SF要素と学園物をよくここまで上手くブレンドしてあるな、と思う。萌えキャラアニメではあるので、好き嫌いはあると思うけど、観た方がいいかどうかで言えば、絶対に観たほうが良いだろう。

 

 

 

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