映画『オクジャ/okja』まずストレートに面白く、かつ食について考えさせられる

最初ジブリ、中盤ケイパームービー(また少し『フィクサー』っぽい空気も感じた)、最後『いのちの食べ方』だった。

これはかなり良質なエンターテインメント映画だと思う。

穏やかなシーンからアクション、希望から絶望、負けからの勝ち、ストーリーに沿って自然に感情の起伏があるように進んでいくから退屈しないし、楽しいシーン、熱いシーンだけじゃなく、静かで苦しいシーンもある。

そして、ハッピーなんだけど腑に落ちないエンド。いろいろ考えさせられるけど、考えないと観れない映画ではなくて、観ている内に考えさせる映画。

そして、何より「あのシーン!」「あの仕草!」と言及したくなる絵がたくさんあった。

 

アクションシーンが凄く良かった。緩急の付け方が洒落てて、ホントかっこいい。

正直、最初のジブリシーンは長く感じていた。その後、オクジャを追いかけるミジャのシーン。とにかく走るミジャをアップで撮ったり足元を撮ったり視線の先を撮ったり、と思えば俯瞰で見せたり。アクションとして気持ちいいだけじゃなくて、ミジャと走るトラックの位置関係を上手く見せててわざとらしくない。

「おー、走ってんなー」と思ってたらおもむろにトラックに飛び乗るミジャ。けっこう簡単にやってくれるなぁ、と思っていたら、トラックの後ろにぶら下がるミジャ!。女の子だと思ってると、スタントがどんどん凄いことになっていく。「まあでも、山を走り回ってるからな。可能かな」という謎の納得感。

そこに動物愛護団体ALFの洒落た登場。ユーモアたっぷりの受け答え。「シートベルト、シー・ト・ベ・ル・ト」。

そして、ショッピングセンター内で大暴れする爽快オクジャ。顔がボコボコで最高の表情を見せるミジャ。アニマルコントロールが撃ってくる麻酔銃の針を傘で受け止めるオシャレ防御。殴りかかってくる警備員のスローモーション。なんだけど、ALF側が平和主義なので、殴り合いにはならず、スローモーションで「ごめん、ごめん」と謝ってる。

何とか外に出てトラックに乗り込む。トラックが通り過ぎる背後で警備員たちがドアから溢れてくる。そこにビー玉(『ホーム・アローン』か!)。最後にはエコ・フレンドリーな最終攻撃(この時のミジャの表情と手の仕草がとても良い)。

なんだこれは。超絶面白い。こんな面白いアクションシーンを観たの本当に久しぶりだ。適度に伏線も回収しつつ、ハラハラするんだけど、でも間が抜けたキャラクターたちが緊張を緩める。

と、凄い「動」のシーンの後、ALFの計画(実質この映画のストーリー)が説明され、ミジャの意志とは反対に、結局オクジャは捕らわれてしまう、という「静」に一気に引き戻される。

 

ストーリー自体はまあ、概ね予想通りというか、こういう設定だったら、こうなるだろうな、という話になっていく。

ただ、話運びが本当にスムーズだし、ちゃんと感情を掴まれる。特に、オクジャが酷い目に合うシーンなんかは、直接的な描写は避けているけど、本当に胸糞悪い。

そこから史上最悪の試食シーン。人が「ただ肉を食べている」ということを、ここまで異常に感じさせられるのは初めて。『ハンニバル』のお食事シーンに比肩する気持ち悪さだったが、あっちは映像自体が異常だからね。こっちは本当に、ただ肉を焼いて食べてるだけ。これがシークエンスの力か。

 

それから、食肉加工の現場や、屠殺場もちゃんと描いている。人によってはグロく感じるかもしれないが、僕はこういう映像を何度か見たことがあるので、「そうだよなぁ」という感じだった。

そう、家畜だからね。

この映画をやや批判的に見るとすれば、オクジャの知性の描き方だろうと思う。最初にオクジャが機転を利かせてミジャを助けるシーンがあるが、そこで、オクジャは明らかに「考えている」。果たして、豚の知性や知能はそのくらいあるのだろうか。

「いや、オクジャは新種のスーパーピッグだから」という意見は妥当だけれど、そうだとすれば、この映画の肉食批判の色はかなり薄まる。食べて可哀想なのは飽くまで「スーパーピッグ」であって、今スーパーで売られている普通のピッグではない、ということになってしまう。

肉食批判の話を聞くて、そのあたりがどうなんだろうな、といつも僕は思う。(もちろん、「知性がなくたって殺していいことにはならない」という議論も当然ありえる。)

ただ、スーパーピッグとは言わなくても、普通の豚に、犬や猫ほど知性がないとは言い切れないんじゃないかと僕はなんとなく思っている。そうなってくると、犬猫は可哀想で、豚はいいだろうっていうのは詭弁だよな、とも思う。

結局、犬猫は愛くるしく、豚は汚い、というイメージの差でしかないのかもしれない。そういう意味でも、オクジャのルックスがベイブみたいに可愛らしくなくて不細工に表現されていることに、僕は誠実さを感じる。(動きはカワイイんだけど)

う〜ん。家畜・・・家畜かぁ・・・。という気持ちになる。家畜という概念を免罪符にしていいんだろうか。

そういえば、オクジャが屠殺される寸前にミジャがそれを止めるためにする行動が熱かった。相手の反応も含めて。

 

 

スーパーピッグを食肉にしている会社ミランドのボスが、「この豚は全身売れるの。声以外は」と言うシーンがある。

この「売り物にならない声」こそ、人間にとって大事なのではないか。

ミジャがオクジャの耳の中で何かを呟く、というシーンがある。
暴行されるオクジャの映像を見ながら、「音を消して!音を消して!」と叫ぶシーンがある。
食肉加工場の外で、屠殺の銃の音がリズミカルに聞こえる中、スーパーピッグたちが一斉に吠えるシーンがある。
ラストシーンはオクジャの囁きで終わる。

「声」というモチーフを、製品にならない、お金に還元されないものとして、この映画は提示しているんじゃないだろうか。

「声」は、何より人の感情を動かすものであって、その場にしかないパッケージできないものであって、生きている物からしか発せられないものであって、でも、よく蔑ろにされているものである。

「資本」に対しての「声」。「製品」に対しての「悲鳴」。「機械音」に対しての「吠え」。「プレゼン」に対しての「囁き」。

 

 

まあ、フェアに見れば、ここまで食肉産業を悪者に仕立てていいのだろうか、というのはある。が、映画はそれでいいんじゃないかと思う。バランスなんか取ってたら、こんなパワフルなものはできないだろう。

バランスを取るのは観客がやればいいんだし。