映画『大日本人』

あえて好意的に捉えると、コントとして面白い。・・・って感じかな。んー、映画としては、んんんー。コントとして捉えれば、まあ、会話とか個々のエピソードは面白かったんじゃないかと思う。

 

この映画全体、そして面白さの軸としてあるのは、「悲哀」みたいなものだと思う。大佐藤の人間としての弱さ。そこから生まれる悲しさや切なさ。これは、『ごっつええ感じ』とか、『ヴィジュアルバム』とかでも、見たことがあるし、松本さんの得意な笑いだと思うし、僕も面白いと思う。

そして、そこだけの映画だと思う。

ただ、面白いといっても、普通のコメディ映画みたいに笑ったところは少ない。頭では「面白いなー」と思っても、わりと淡々と観ていた感じだった。やっぱり、このタイプのギャグで笑うにはツッコミが必要なのだろうなー、と思わされた。それは、話の内容を頭で理解して面白がるということと、笑うということは直結していないと個人的には感じるからだ。なぜ直結していないかというと、恐らく「笑い」というものが受動的な行為だからなんじゃないかと思う。つまり、能動的に頭で理解する面白さは、面白くてもあまり笑えないが、「なんでやねんっ!」という音や動きの知覚や、「スラップスティック的な動き」というアクションに対するリアクションとして人は笑っているんじゃないだろうか。

ストーリー的には退屈だとしても、個々のシーンの、特に会話は面白かったので、案外、鑑賞自体にはそんなに退屈しなかった。もちろん退屈なシーンもあったけど、途中で停止ボタンを押そうと思うほどではなかった。

 

その描かれる「会話」には、大佐藤の悲哀を説明するような会話と、ストーリーとはあまり関係がない、意味のないどうでもいい会話の2つがある。

この映画が、大佐藤の悲哀を描きたいものだとしたら、前者の会話は意味があるっちゃあるから、別に無駄だったりはしないだろう。後者は意味がないから、退屈だととられても仕方がない。ただ、僕はわりと面白いなー、と思って、やっぱり映画というよりコントか、短い会話劇のようなものとして観ていた。

 

この映画が映画としていまいちなのは、映画の内容的に、大佐藤の悲哀を演出する為(つまりボケる為に)に、無理のあるところがいくつもあるように思うし、設定があやふやなところが多いので、映画内の世界観やストーリー(があるとして)に違和感があったり、ピンとこないところがあったりするからだ。

大佐藤の悲哀エピソードのひとつとして、街頭インタビューで、みんながほぼ無関心か、知ったような一般論しか言わない、というのがあるんだけど、まずそこに違和感がある。

大佐藤が、獣が都会に来る前に山とかで戦ってるならまだしも、実際にビルとか破壊されてる状況、結構な災害が起きてる中で、あれだけ一般人が無関心なのは、いまいちピンとこない。

板尾さん獣が出てくるあたりも、ちょっとややこしい。獣は動物的なものだと思ってたら、ここで急に知性のある獣が出てくる。ここの掛け合いはもうコントそのもの。面白いけど、やっぱりストーリーとしてはハチャメチャ。

そもそも、この世界の中での「獣」の位置付けがちゃんとなされていないことが、いろいろな違和感とか、ピンと来なさを引き起こしている大きな原因だろう。世間から浮いてる大佐藤を描くときに、その世間と獣との関係をちゃんと描かない、設定しないのは、大事なところがすっぽり抜けているんじゃないか。

 

ただ映画として良いかは置いといて、大佐藤の悲哀感は結構見ていて面白かった。

大佐藤は、獣退治は自衛隊に任せれば、という主張に対して、「伝統だから」という反論をする。つまり、彼は自分が日本の伝統を守っているというところにアイデンティティーなり、存在意義を感じている(だから娘にも継がせようとしている)。しかし、日本人の大多数は、伝統なんてどうでもよくて、大佐藤のことをちょっと迷惑に思っている。

これは、仕事とか役割と、自分のアイデンティティーの問題で、わりと普遍的なテーマではあるんじゃないかと思う。自分にとっては仕事がアイデンティティーなのに、その仕事自体が必要ないと言われてしまえば、自分の存在自体が否定されるに等しく感じるだろう。

それがあるから、変身の前の儀式が形骸化していることも悲哀を強めている。警備員の会話の前半(後半は無意味な会話。おっさんの良い事言おうとしてる感が面白かったけど)や、インタビュアーがやり直しをさせて、大佐藤か目を泳がせながら「入りました」というエピソードに、形骸化しているものに自分の存在を託して、必死に存続させようとしている大佐藤の悲しさを表現する意味で、ストーリー的には形を成していると思う。

つまり、一般人のみならず、大佐藤の周りにいる人々さえも、大佐藤のやっていることに、若干の半笑い感を感じているような、それを大佐藤もなんとなく分かっているような孤独感とか、切なさみたいなものがある。

でも大佐藤は、分かっていても、そういう客観的な見方を受け入れられない弱さを持っていて、例えばゲーム世代の子供に説教したりする(ここでインタビュアーが「ゲームやんないんでよくわかんないですけどね」と返すのは笑った)。でも、「移動して変身するより、変身してから移動した方がよくないですか?」とつっこまれると、黙り込んでしまう。

マネージャーが車買い替えるのも、大佐藤が仕事にかけるプライドとは裏腹に、結局大佐藤は搾取されてるっていう描写で悲しさを増すし、溺愛する娘にも、父に対する質問で「分かんない、知らない、どっちでもいい」と言われてしまう。

大佐藤自体は、全くユーモアのない人間で、自分の置かれてる状況とか、自分自身の弱さとか、愚鈍さとかを直視できない。そこが客観的にみている観客には、また悲し面白い。この「本人は大真面目なのだけど、周りから見たら滑稽である」、というのはコメディの基本みたいなところだろうから、そういう意味では、この「悲哀」を面白さの軸にしているのは、結構、まっとうなコメディの型ではあるのかもしれない。

 

無意味な会話にしても、ストーリーに関係ないとはいえ、それ自体は面白い。例えば、大佐藤がどうやって小さくなるのか、どうやって大きくなるのか、という会話は、『ごっつええ感じ』でいうところの、よく分からないスポーツが登場して、それをインストラクターである松本が説明するけど、結局よく意味が分からない、という笑いに似たところがあって面白かった。

つまり、「大日本人」という生き物のディテールを、インタビューで話す(解説する)ことによって、一見、物語の世界の中でリアリティが生まれていくのだけど、よく考えたら「なんじゃそりゃ」っていう、大真面目にテキトーなことを言われる面白さ。

 

体に広告を入れている、という設定は、大佐藤の悲哀と、物語内のなんじゃそりゃリアリティの両方に貢献しているのだから、エピソードとしてはかなり良いと思う。

自分の前の世代のうるおいっぷりと、背に腹は変えられず、大事な腰にまで広告を入れてしまう(「何で腰はダメなんだ」ってのも、なんじゃそりゃ設定で面白い。とか、いちいち言及してるのが面倒くさいくらい、細々したボケはたくさんある)大佐藤の悲哀と、大佐藤の生活という現実的なリアリティがあるように見せかけて、でも、そもそも体に広告を入れて戦っているって、よく考えたらやっぱり「なんじゃそりゃ」という面白さが、このエピソードから生まれている。

父親の話で、「より大きくなろうとしたんだろうね」というところも、なんじゃそりゃで面白かった。「何でもっと大きくなろうとしたんですかね?」という質問に、「まあ、ちょっと粋な人だったからね」という返しは絶妙で面白い。

 

最後のコントシーンについては、いろいろな意見があるようだけども、僕は単純に面白くなかった。というか、ああいうリンチが面白さより不快感に感じて、笑うっていうより、怖かった。でも、まあ、そこは感性の問題だと思う。最後の食卓の反省会シーンは面白かったが、あれもやっぱりコント的というか、バラエティ番組的な面白さだ。

 

ということで、いいところは結構あるような気もするけど、何にせよ映画として観るには、ちょっとなー、という作品だと思う。でも、松本さんのコントとかが好きな人はそういう見方で楽しめるんじゃないかなぁ。