映画『es』の感想

怖かった。

映画が始まるところから(というか、観る前から)、だいたい展開は予想できた。看守側がだんだん凶暴になり、囚人側が卑屈になっていくんだろうなー、くらいのことはなんとなく予想できる。正直、始まってしばらくのところまでは結構退屈だった。

こういう実験の話は何度か本で読んだり、人から聞いたりしたことはあったから、まあ、どう虐待がエスカレートしていくのか、というところが見所かなー、くらいに思っていたのだけど、ちゃんと怖かった。というか、もちろん、これは誇張されたフィクションだと分かった上で、それまで話として知っていたものを、ちゃんと感情込みで疑似体験できたので、怖くて面白かった。自分だったらどうなるだろうとも考えた。

特に、ちゃんと囚人側に感情移入できたのがいい。だんだんエスカレートしていく虐待に、次は何をされるんだろうという不安や恐怖。目をつけられないようにおとなしくしていよう、という卑屈さ。いくらなんでもやり過ぎだという苛立ち。

 

でも、この映画で1番面白かったのは、1時間半ごろからのクライマックス。実験のモニターをしている部屋に看守側の被験者が入りこんで、実験をしている側(研究員の男)をも牢屋に閉じ込めてしまうところだ。

なぜ、ここが面白かったかというと、それまでは、これはあくまで「実験」だという、かぎかっこ付きの事件として観客は捉えている。現実の下部に存在している「実験」というフィクションとして。だから、せいぜい実験がエスカレートして悲惨なことになりました。というオチになるのかなー、くらいに思ってみている(実際そうなのだが)。

でも、研究員までが牢屋に入れられてしまうと、この前提は崩れる。「実験」が現実に影響し始める。現実と実験の境がなくなり、下手をすると、そのまま現実の方が「実験」に取り込まれるような事態になりかねない。

そうなると、散々この実験の悲惨な実態を見せられているこっちとしては、かなり恐怖感がある。つまり、この最悪の状況が、現実として定着してしまうんじゃないか、という恐怖。

あくまで、「実験」にぶら下がっていたに過ぎなかった看守たちは、自分達に都合のいいように現実を解釈して行動し始める。そして、実験の枠をはみ出し、現実に進入してくる。最初はささいな暴力だったものが、そのうち虐待になり、実験のルールの歪曲、最終的にはルールの無視、というか私物化。

 

この、「自分の行動の正当化」が何より怖い。これは、わりと最初の方からある。それこそ、最初のはみ出し行為として、囚人からベッドを奪い、裸にさせるところがあるが、その時点で、看守側は「秩序を取り戻すためやった」という理由を述べて、行動を正当化する。

囚人53番の気が狂って暴れまわる。それを看守が殴って気絶させる。というところから、実際の暴力が横行し始めると、一気に実験のルールが崩れる。看守側であったはずのボッシュが暴行を受けた上、囚人にされる。研究員の2人も囚人にされる。

明らかなルール違反を犯しているベルスらの言い分は、「これも実験のうちだ」という勝手な解釈によるものだ。この「実験」が自分の暴力に承認を与えていると考え、すべて「実験のうち」ということで、自分の行動を正当化する。

最終的には、ベルスは、ナイフで囚人を刺し殺そうとさえする。ナイフは囚人が手で受け止めたため、重傷にこそならなかったが、手からは血がしたたる。そこでベルスはようやく我に返って呆然とする。自分はなんてことをしているんだろう、と。

単なる「腕立て伏せ」から始まった暴力は、最終的には「殺人」にまで達してしまう。

 

映画としては、最初の方が退屈なのと、事態を収束させる役目であるドラの行動にいまいち共感できないことや、脱獄の道具であるドライバーのとってつけた感など、不満がないわけでもない。

けど、そんなことより、最初のゆるい空気から、緊張感の張りつめた空気への移り変わりや、観ていて感じる憤り、脱走シーンのハラハラ感など、ストーリー自体も、エンタメ性に優れているというか、普通に面白い映画なんじゃないだろうか。

 

 

で、こういう映画を観ると、「自分だったらどうなるだろう」というのは、誰でも考えるだろう。囚人側だったら、誰のようになるだろうか、看守側だったら誰のようになるだろうか。こういうのを考えてみるのは、とても重要だと思う。

この映画で、1番の悪役である、看守のベルスを見て、どう思うだろうか。「もともとヤバイ奴が、この実験であぶりだされたのだ」と思うだろうか。確かに、ベルスはもともとそういう性質を持っていて、それが実験によって顕在化してしまった、というのは正しいだろう。

しかし、「この実験によって、ベルスのような人間が生み出されてしまった」とも言える。この実験がなければ、ベルスはまあ、そこそこ幸せな生涯を過ごしたかもしれない。

もちろん、「実験が悪い人格を引き起こした」という単純な因果関係を導くことはできない。なぜなら、看守側にいても、良心を失わなかったボッシュのような人間もいるからだ。しかし、少なくとも、実験が、その人の人格にかなり大きな影響を及ぼしたことは疑いようがない。

 

それで、これを「実験」だ、と切り捨ててしまえば、「運が悪かったね」とか「よく分からない実験には参加しないようにしよう」とか、それで済むのかもしれない。

でも、例えばこれが「教育」だったらどうだろう。「政治」だったら、「報道」だったら、「親子」だったら。

「実験」のように、閉じられた狭い場所・出来事なら避けようもあるし、影響を受ける人も少ない。しかし、これが上記のような、社会に普遍的に存在し、影響を避けられないようなものならどうだろう。

社会全体が、1つの実験室のようなものだと捉えることもできる。僕達は日々いろんなことに影響を受けている。時には、道徳や倫理に反するような考えや行動をとることがある。それは思考停止で論理をスキップするか、もしくは捻じ曲げて、そうしてしまう。

「自分は大丈夫だ」なんて言えない。間違っている人は、自分が間違っていることに気付けない可能性が大きい。間違いが、自分より大きな存在(マジョリティとか、権力とか、なんらかの正当性)と同調しているときには、なおさら気付けない。

自分がベルスのような性質を持っていないなんて、どうやったら確認できるだろうか。

この映画で描かれたのは、あくまで1つの実験の話だが、決して他人事じゃない。僕達のすぐ身の周りでも、似たようなことが常に起きているはずだし、もしかしたら、自分もいつのまにか、「悪い看守」側に回っているかもしれない。その可能性を感じさせるのが、この映画の1番怖いところだ。